為楽当及時~再旅人kenのblog~

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ひどすぎる記事…

ヤフーのニュースに、「河内貴哉 1軍復帰へ不屈の心」という記事が。
リンク先は、マウンドに帰ることを夢見る男でしたが、
記事がひどい…内容というより、誤字脱字関連が(-_-;)
取り合えず、全文引用。

プロ野球のキャンプも佳境に入ってきた。選手個々がステップアップを目指し、チームとして仕上げていく時期を迎えている。そんな中、一軍のマウンドに帰ることを夢見て必死に野球と向き合う男と再会した。

1999年11月19日ドラフト会議で第1回選択希望選手として、広島、近鉄、中日の3球団から指名を受けた河内貴哉投手。抽選の結果、広島の達川晃豊(現在は光男)監督が交渉権を獲得した。期待の左腕はかつて大野豊投手(現広島コーチ)が背負っていた24番の背番号を与えられ、プロの舞台に足を踏み入れた。

2000年5月3日広島市民球場でのヤクルト戦で初登板初先発。ゴールデンウィークの地元開催試合での初登板初先発という舞台が用意されたことからも球団の期待の大きさが分かる。それから27日後の5月30日巨人戦で初勝利。高卒ルーキーの初登板が巨人戦というのは史上4人目の快挙。フレッシュオールスターではMVPも受賞し、順風満帆ともいえるスタートを切った。

2004年にはオールスターゲームにも出場、自己最多の23試合に先発し、初完投は4月18日の巨人戦で記録した。ちなみに初ホールドは2006年9月18日の巨人戦と何かと巨人戦で初ものを記録する「何かを持っている」投手だった。

しかし、入団当初から指摘されていたクロスステップの投球フォームを毎年のように修正しようとして、その形を崩していった。かつては150キロを超えることもあったストレートが走らなくなり、思い通りのボールにならない中、フォームをサイドに変えたり、また戻したりと、必死に野球にしがみついていく日々を送るようになった。

もがき、苦しむ中で彼の左肩が悲鳴を挙げた。2008年に左肩を手術、翌2009年もファームですら登板することなく、戦力外通告、育成選手として再契約となった。その育成選手としても3年目。プロの世界に入って12年目。年齢は30歳になる。

昨年5月27日1358日ぶりにウエスタンリーグのホークス戦で公式戦マウンドに立った時「また一軍で投げてみたい気持ちがこれでさらに強くなりました」と語った彼と日南で再開した。左肩の状態はかなり良くなっているようで、体は投手らしいシュッとした体形を維持していた。

「辞める時には、悔いは残るだろうけど、よくここまで辛抱して、大好きな野球に身を置き続けたね。その気持ちを尊敬するよ」と話す私に「もし次に投げて左肩が飛んでも、後悔はないです」と、間髪を入れずに答えた彼。そうはいっても、引退のときには、「あの時ああしていれば、こうしていれば」と振り返ったときには後悔に似た念に駆られるだろう。それでも、彼は強い目で、言葉で先ほどの言葉を私に返した。

もう一度一軍のマウンドを夢に見ながら、その夢を時いつ減させる強い意志を持ちつでけるならば、野球の神様は河内貴哉という投手にもう一度チャンスをくれると信じたい。



太字に斜体がおかしなところ。

高卒ルーキーの初登板が…
→初勝利が、の間違いでしょう。その前で初登板のこと書いてるのに。

再開→再会

時いつ減させる→じいつげんさせる→実現させる?

持ちつでけるならば→持ち続けるならば?

自分のブログでも読み返していて誤字がないわけではないので、
多少のことなら気にしませんが、ちょっとひどすぎるような…
こんな内容でお金もらってるのか?と思うと羨ましいです(笑)

ちなみに、河内投手よりも同期の苫米地投手のほうが印象に残ってますね。
引退も早くてびっくりした覚えがあります。
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